新旧ベントレー31台が日本を縦断
今年に入り、インバウンド客の数はついに最高新記録を樹立しそうな勢いだが、クルマの世界でも最もゴージャスで最もマニアックな日本一周ツアーが、世界7か国から集まったベントレー・オーナーにより開催された。
【画像】クラシックベントレー31台による日本一周大冒険ツアー 「BENTLY RISING SUN RALLY 2024」4/23-24の区間レポート 全39枚
このツアーは英国に本部があるベントレー・ドライバーズ・クラブとオーストラリアの支部が企画したもので、日本での開催にあたっては、これまで数々のイベントを手掛けている岡田邦雄さんと株式会社MUSABIの増田恵美さんが運営をおこなっている。
参加車は31台を数え、なかでも最も特徴的なW.O.ベントレー時代のクルマがなんと18台も参加するという、オールドベントレー・マニアにとっては、空前絶後ともいうべき驚異的な台数が集まるツアーとなった。
ツアーは4月5日に福岡をスタートし、24日間をかけて日本を縦断する行程で、阿蘇、湯布院、広島、石見銀山、出雲、天の橋立、金沢、佐渡などを経て19日目の22日に日光に宿泊。翌23日の朝、長野の蓼科に向かう途中でワクイミュージアムに立ち寄る予定であった。
AUTOCAR JAPAN編集部は、このワクイミュージアムから、蓼科を経て富士スピードウェイまでの2日間、新車のベントレー・フライングスパーでツアーに帯同した。英国紳士たちの楽しくもハードなツアーの様子をお楽しみいただきたい。
4月23日 ワクイミュージアム
ベントレー、ロールス・ロイスのスペシャリストとして名高い、涌井清春さんが主宰するワクイミュージアムは埼玉県加須市に存在する。
数ある展示車の中でも1928年のル・マン24時間レースの優勝車「オールドマザーガン」や、戦後の傑作車で実に優雅なボディを持つ1955年Rタイプコンチネンタルの2台は白眉といえるものだが、これらと本日からツアーに加わる日本国内組6台のベントレーを並べて、ツアーメンバーを迎えた。
並べて感じる、100年変わらないベントレーの神髄
私たちはちょうど100年前の1924年に生産されたWO1924のナンバーを持つ3リッターと、新車のフライングスパーを並べて写真撮影させていただいた。このベントレーのオーナーは御年74歳のデビッド・ヒューグさん。香港から参加しており、このクルマを15年間所有しているという。撮影をしながら、100年の時を隔てれば形状は全く異なるが、走りに徹するというベントレーの神髄はまったく変わっていないと感じたのである。
W.O.ベントレー時代のオープンツアラー18台が参加
18台が参加したW.O.ベントレー時代のオープンツアラーの内訳は、オリジナルの3リッターが4台、6気筒の6 1/2リッター・スピード6が3台、4 1/2リッターが8台、そして最終モデルの巨大な8リッターが3台であった。
6気筒8リッターモデルは日本には輸入されたことがなく、細部を観察するのが楽しみであった。実車はボンネット位置が他のモデルより一段と高く大振りで、威風堂々としているのに感動した。ベントレー独特のエグゾーストノートも力強く、W.O.ベントレーの集大成版だと感じさせるに充分であった。
この時撮影したGP1999、GN5182の2台はいずれも英国からのエントリーであった。GN5182のオーナー、トニー・シンクレアさんは、私のアドレスにすぐに自身の8リッターのヒストリーを送ってくれた。
それによると完成当初はサルーンボディであったが、その後5人のオーナーを経て、1970年から2002年まではバラバラの状態でアメリカにあったようだ。
しかしレストレーションが開始された後、途中からUKに移り、2010年にショートシャシーに短縮されたオープンボディでレストアが完成された。完成後は現オーナーのもとで、カナダやアメリカ、オーストラリアなどをツーリングしているという。
CORSICA製ボディのロングノーズ・ツアラー
1台、超ロングノーズ、ショートデッキのやや変わったスタイルのシルバーのツアラーが到着したので、さっそく取材をしてみると、ベントレー社が苦境に陥った1931年になんとか生き延びようと大幅にコストダウンして製作した最後のモデル、4リッターをベースとしたクルマであった。
メカニカル部分をすべて高性能な8リッター仕様に換装し、ボディはCORSICAというコーチビルダーの手で製造されたそうだ。生産台数はわずかに6台であるという。オーストラリアからのエントリーで、ドライバーはトレバー・イーストウッドさんであった。
ティータイムの後は一路蓼科を目指す
ワクイミュージアムでのティータイムの後は、一路蓼科を目指す。一行のランチは自由でどこで食べても良いのだが、ほとんどのエントラントは朝と晩だけしっかりと食べて、昼はパスするか簡単なスナック程度だという。
上信越道から国道254号へ 霧のワインディング
上信越道から国道254号に至る山越えのワインディングは、雨と霧で厳しいコンディションとなったが、皆オープンのまま一気に走り抜ける。
春浅い信濃路に響くベントレーのエグゾースト
頂上の長いトンネルを抜けると信濃路に入る。まるで季節が戻ったかのように景色が変わり、桜が残るまだ春浅い高原は、冷気の中に沈んでいた。ベントレーの野太いエグゾーストノイズと特徴的なメカニカルノイズが、澄んだ空気を震わせて気持ちが良い。
祖父の代からのベントレーボーイは日本から
午後3時ごろには蓼科東急ホテルに到着。パーキングではプラグを交換したり、オイルを足したりとメインテナンスに余念のないエントラントの姿が見受けられた。
写真を撮影していると、日本国内から唯一全行程を参加している3リッタースピードが入ってきた。オーナーは岡部誠さんで、祖父の代からベントレーを所有しているという筋金入りのベントレーボーイであった。
蓼科東急ホテル 夜はバーベキュー・パーティー
夜はわれわれ取材陣も参加してバーベキュー・パーティーである。蓼科高原の夜はまだ息が白く、かなり冷え込んでいたが、寒さを吹き飛ばすような彼らの飲み、食べ、かつ喋るパワーには圧倒された。
パーティーの最後はベントレー・ジャパンの広報部長、遠藤氏による歓迎の挨拶で締めくくられた。毎日、こんな行程をフルに楽しんで行くアングロサクソンのパワーには敵わないなあ、というのが正直なところであった。
4月24日 蓼科から松本城、そして富士SWへ
本日は蓼科から松本城に行き、その後、富士スピードウェイホテルへ向かう約200kmの行程である。この日のテーマはワインディングを走ることであった。
タイトな山岳路をものともせず
蓼科から、松本城までのルートは、道幅は狭く急勾配のうえ、深い霧で、100年前のベントレーにはかなり厳しいコースであったが、皆ものともせずに通過する。クルマも人も実にタフだ。事務局の岡田さんによると、事前の下見では、更にタイトなコースが多くセレクトされていて、これでもかなり抑えてもらったのだという。
ここで私は最新のフライングスパーの奥深い実力を味わうことができた。ボディサイズは現代のクルマの常でそこそこ大きいのだが、ワインディングで振り回していると全くそのサイズを感じさせず、V8エンジンの有り余るパワーと的確なステアリングで加減速を繰り返しながら、ウェットにもかかわらず気持ちよく駆け抜けることができた。ベントレーの100年の伝統はしっかりと受け継がれているのである。
松本城に到着
松本城は松江城に次いでこのツアーで2つ目に訪問するお城である。お堀にそびえ立つ松本城は駐車場からも近く、皆さんしっかりと見学していたようだ。
ここでは後から来たVF6622のナンバーを持つ1929年スピード6のオーナー、イアン・オーエンさんと一緒にお城の周りを散歩した。彼らも日本の持つ独特の良さに感動したと話してくれた。
日本ウイスキーの聖地、白州へ
今日の到着地、富士スピードウェイに行く前にあと2か所、立ち寄るところがあった。その一つは山梨県北杜市にある、サントリーの白州蒸留所である。
今、国産ウイスキーの世界的評価はうなぎ上りで、その先端にサントリーが位置しているが、実はウイスキーの本場、スコットランドの老舗グレンファークラス・ディスティラリーのオーナーであるジョン・グラントさん夫妻も、このツアーに1934年の3.5ダービーで参加していた。
タイミングが合わずお話を伺うことはできなかったが、白州でどんな感想を持ったのだろうか。
われわれは訪問者一人に1本だけ購入の権利が与えられる、シングルモルトの「白州」を購入したのはいうまでもない。
御坂峠はつづら折りの旧道を
甲府盆地から河口湖に向かう御坂峠は、現在はショートカットする長いトンネルで結ばれているが、つづら折りの急坂が続く旧道のトンネル出口付近に、かつて作家の井伏鱒二や太宰治が逗留した「天下茶屋」があり、そこからの富士山の眺めは本当に美しく名所となっている。現在はあまり訪れる人はいないのだが、なんと今回のツアーはこのコースを選択していた。
天下茶屋で出会ったのは、1929年の4 1/2リッターでオーストラリアのアダム・シェパードさんのエントリーであった。4 1/2リッターは最も参加台数が多く、8台を数えている。そのサイド・プロポーションもベントレーらしさを最も体現していると思う。
残念ながら目の前に広がるはずの富士山は雨でまったく見えず、エントラントからは「どのあたりがフジなのか」と何度も聞かれた。翌日の天気予報は快晴であったから、「明日の朝を楽しみに」と言うしかなかったが、その後の報告で、皆、翌日の晴天とヘリによる遊覧飛行を楽しんだようである。
インバウンドの最高峰を垣間見た2日間
富士スピードウェイホテルに到着したのは午後5時ごろ。すでに殆どのエントラントが到着し、アフタヌーンティーを楽しんでいた。
われわれは24日間のツアーの内たった2日間参加しただけであったが、インバウンド客の中でもその最高峰に位置する、深く長く日本を知るツアーの存在を垣間見ることができた。エントラントの皆さんに聞いた日本の印象は、人々が優しく、食事が美味しく、素晴らしい体験ができたと多くの人が語ってくれた。エントラントの多くはすでにビジネスからはリタイヤしていて、ベントレーとの暮らしを心の底から楽しんでいる姿がうかがえた。
私が約40年前に何度も英国を訪れた際、かの地の若者は生まれた時から家にクルマがあり、父親や祖父と共に当たり前のように古いクルマを楽しむ姿に感動したものである。
その時、日本のクルマ文化もいずれはそうならなくてはと感じたのだが、今の日本はまさに40年前の英国と同じ状況にある。実はAUTOCAR JAPAN編集部にも、マニアックな若者がスタッフとして加わってきた。この状況は大いに楽しみだが、英国はさらに先を行き、100年前のクルマでガンガン走っているのだ。
「クルマは、走ってこそなんぼ」なのである。
なお、ツアーの参加車両などの詳細は、画像ギャラリーでぜひ見ていただきたい。
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